関ヶ原弾薬庫(終戦の日に思う)

今日は終戦の日

二つの祖国を持った父は、家族が日本にいたからという理由で日本兵として出兵。
関ヶ原弾薬庫の見張りをしていたと話してくれたものです。

二つの国籍を持つことで、当然のようにスパイと疑われ
「見張り番は人より多く、いつも眠かった・・・。」
「大垣から来た人は自分を疑うことなく接してくれたよ、弾薬庫から見える大垣の灯りに『帰りたいなぁ』と言っていた・・・
お前が嫁ぐ大垣は、優しい人が多いから安心だ」と付け加え、当時の会話を教えてくれました。

そんな父を偲ぶため
終戦の日に合わせて、関ヶ原弾薬庫へ行ってきました。
2015-08-15a.jpg
苔むした立哨台を手で触り、当時、父がここに立ち警戒していたと思うとこみ上げるものがありました。

父がそこにいるような気になりました。

2015-08-15c.jpg
2015-08-15b.jpg
2015-08-15d.jpg

関ヶ原弾薬庫の後大陸へ出兵し復員
その後、再び召集されビルマへ

『昭和19年、福井県敦賀市の歩兵第119連隊にある命令が下った。任務は“退却支援”。ビルマ戦線で壊滅状態にあった主力部隊を救出せよというものだった。
味方の盾となり、連合軍の追撃を防ぐ第119連隊。補給もなく、マラリアや赤痢など病に倒れる兵士も続出した。第119連隊はおよそ2700人が戦死。生存者は1000人にも満たなかった。』
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210011_00000

NHKの戦争証言 アーカイブスにあったこの映像を見て
時折話してくれたビルマ戦線の状況は真実で、まだ表現を柔らかくしてくれていたのだとわかり涙が止まりません。

生きて帰って、終戦後まだ続く二つの国籍問題
国立国会図書館 関西館でいろいろ調べ、ある程度分かることができ、私なりに父を理解できたかな?と思うこの頃です。

最近の状況に心を痛めています。
「丁寧な説明」というのは「わかりましたあなたに賛同します」というまで説明を繰り返すということではないかと・・・、
それは、受け入れられない人と議論し合い、接点を見出すものではないと感じるこの頃です。

和(やわらぐ)を以て貴しとなす(聖徳太子の17条の条文)

「重大なことがらはひとりで決定してはならない。必ず多くの人々とともに議論すべきである。…(重大なことがらは)多くの人々と共に論じ、是非を検討してゆくならば、その結論は道理にかなうものになろう」

和(わ)を以て貴しとなす
とりあえず、仲良くしましょうという、とうい今までの解釈とは違います。

東大寺さんへお参りしたときにこれを知りました。それ以来大好きな言葉になりました。

多くの犠牲のもとに今の平和があるということを忘れずに、これからも平和な国でいられますように・・・・と
終戦の日に心から願います。
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する